c1126 雨傘番組

タケシは20代、漫才でちょっとだけテレビに出ていたがその後、影が薄くなっていた。 浅草あたりでやけ酒を飲んでいる、と噂されていた。 ちょうど30歳になった頃だろうか、初めてタケシの名前を番組の冠に付けた、元気が出るテレビなる番組の企画が持ち込まれた。 この番組は日本テレビ系列、後楽園球場のドーム化前で、巨人戦が雨で中止になった時に流す、鬼瓦権造なるキャラクターでフィーラー番組、いわゆる雨傘番組であった。 名の通った役者なら断りそうなものだが、タケシは縋るしかなかったのだろうか。 当時、フジテレビ日曜夜8時は欽ちゃんのオールスター家族対抗歌合戦が好評。 ひかるはそのチーフカメラマン、M君を裏番組、タケシに起用する事にした。 歌合戦はスタジオ番組で日曜日収録、翌週日曜日放送でタケシは日曜日は収録無しとの事で起用を決めたが、ゴールデン番組の裏表。 両局のメンツがぶつかり、ひかるは窮地に追い込まれる事となる。 フジテレビの日曜8時、ゴールデン番組のチーフカメラマンを、いわゆる完璧な裏番組に起用する事にHディレクターが異を突き付けて来たのである。 担当課長等に交渉させるがらちがあかず、とうとう最後の砦、ひかるの出番となった。 H氏はフジテレビきっての東大卒駿腕ディレター、学生運動では安田講堂の屋上で大きな旗を振り、リーダー役、全国弁論大会を制覇して来た、と噂される弁舌家。 当時の芸能界大御所、古関祐爾や水江タキ子など、こうしましょ、こうして下さい、など歯に絹きせぬ自信溢れるてきぱきぶり。 フジテレビでは当時、早稲田卒が圧倒的に多くいたが、この東大卒にだけは勝てない、といわれていた。 かたやひかるは、子供の頃から25歳までオシと言われ、社内でも窓外族で通し、やむなく社の中心に据えられたばかり。 勝負は既にあったも同然と言われたが、ひかるは日本テレビ側にM君の起用を通達済みで、引く訳には行かない。 H氏にアポをとり会いに行くと、歌合戦の編集中だが、完璧に無視した態度。 待つこと2時間近く、ひかるはソファーで微動だにせず薄目で様子を見ていた。 この男、終電になっても明け方までテコでも動く気配がない、と観念したのか、Hディレクターは前に座ると一気にしゃべりだした。 何度も言っているが、M君は私が手塩にかけノーハウをつぎ込んで、やっとチーフが張れる迄育て上げて来た。 事もあろうに当面の敵局、裏番に起用するとは常識外だ。 向こうが軌道に乗れば、こちらの視聴率が喰われるんだぞ。子会社の身分で場合によっては君のクビだけではすまない、社長だって危ないぞ、とひかるを逆なでする事まで言われ、怒鳴り返したかったが、そこは忍々。 存分にしゃべらした後、たどたどしいながらひかるはしゃべりだした。

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