20代後半、沖縄が本土復帰をする。
ひかるは大事にしていたパスポートを焼きすてた。
ひかるの中で何かが吹っ切れたようだ。
そしてちょうどその頃、社内には、一大異変が起きていた。
第一期入社の同期の連中は、管理職として、各部門を統括していたが、よりによって、その連中が、束になって、会社を辞め、別会社を設立し、従来の仕事をそっくり持って独立していったのだ。
労使問題でガタガタしているとはいえ、発注先であるフジテレビ゙が、設立されたばかりの、資本の入っていない独立会社へ翌日から仕事を廻す。
明らかに契約違反であり、フジテレビは、ひかるの会社を潰しにかかった、と解釈されても仕方のない事情であった。
取り巻く周りからもかなり注目されている中、唯一残った第一期生、ひかるは、社のどまん中へ担ぎ出されてしまったのである。
しかし、ひかるは苦境に立たされれば立たされる程、頭を使う。
次から次と、誰もがあっと驚く奇抜な策を行使、放送業界全体をも覆すリーダーシップを発揮して行くのである。
二度にわたり、管理職が有能な社員を引き連れ独立、残された社員が殆んど組合員、会社の存亡すら危惧され混乱。
当然、沈静化するまで待とう、何んとか無難に切り抜けよう、と守りに徹するのが普通である。
しかし、ひかるは全く逆の発想だ。
こういう時だからこそ、打って出る、しゃにむに攻撃態勢を取り、社内の目を組合騒動からそらせ、一丸にする。
攻撃目標も、生半可でないどでかい目標を掲げる、という発想だ。
当時のテレビはドラマやクイズ花盛りで、スタジオ、局内中心で作られている。
ロケを大量に取り入れ、山や川、家の中まで入り込み、外部の映像を茶の間へ届けよう、番組作りの土俵を強引に外へ出す。
技術プロダクションとしてテレビ局と番組の内容で勝負しようとの考えである。
ひかるが手始めにトライしたのが、「天才タケシの元気が出るテレビ」だった。
兵頭ユキや高田順次の映像は、お茶の間に大いに受けた。
そして、業界を、あっと驚かせたリアルな表現、しかも素人を相手にした、オールロケの「ねるとん紅鯨団」だった。
その後、日本は世界に類を見ない映像、テレビ王国へと突き進んでいったのである。
次回、裏話など・・・ご期待を。
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